教会について

サウンドオブプレイズチャーチのウェブサイトへようこそ。  私たちは、日本の沖縄県うるま市にあるインターナショナル教会です。  私たちの教会は、日本合同ペンテコステ教会と国際合同ペンテコステ教会に所属しています。  どなたでも歓迎いたしますので、ぜひお越しいただき、ご一緒に交わりましょう。

UPCIは、聖書に基づく教会であり、私たちの信念やライフスタイルのすべてを、聖書の特定の箇所や聖書の原則に基づかせようとしています。聖書に基づいて、私たちは次のことを信じます

  序文

私たちは、聖書が神の霊感を受けて書かれたものであ り、絶対的に信頼できる神の言葉であると信じる。「聖書は、 すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、 戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(テモテへの第 二の手紙 3:16)。

聖書は人間が所有することのできる、神から人間に与 えられた唯一の権威である。従って全ての教義、信仰、希望、 そして教会に対する教えは、聖書に基づき、聖書と一致して いなければならない。聖書はあらゆる所で全ての人によって 読まれ、学ばれるべきであり、聖霊の油注ぎを受けた人々に のみ明瞭に理解される(ヨハネの第一の手紙 2:27)。「…聖 書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきではないことを、 まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の 意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって 語ったものだからである」(ペテロの第二の手紙 1:20-21)。

  唯一、真の神

私たちは唯一の、とこしえに生きる、永遠の神を信じ ている。その神は力に限りがなく、性質、特性、目的に於い て聖であり、絶対にして分割できない神性を有する。この唯 一、真の神は、御自身を父としてあらわし、あがないに於い ては御子としてあらわし、そして外部に流出することに於い ては心に注がれる聖霊としてあらわされた。(コリント人へ の第一の手紙 8:6、エペソ人への手紙 4:6、コリント人への第 二の手紙 5:19、ヨエル書 2:28)。

聖書は神の存在を実証しているだけでなく、神につい ての知識は普遍であると主張し、自明のこととし、宣言して いる。(ローマ人への手紙 1:19, 21, 28, 32; 2:15)。神は目に 見えず、形無く、器官や肉体を持たないので、いかなる制限 も受けることがない。神は霊であり (ヨハネによる福音書 4:24)、「…霊には肉や骨はない…」(ルカによる福音書 24:39)。

「…第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞 け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。』」

(マルコによる福音書 12:29、 申命記 6:4)。 「すべてのも のの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にい ます、すべてのものの父なる神は一つである。」(エペソ人 への手紙 4:6)。

   この唯一、真の神は、旧約において様々な方法で自ら
をあらわし、人々の中を歩む間は御子としてあらわれ、昇天
後は聖霊として自らをあらわされた。

 神の御

唯一、真の神であり、旧約のエホバは人間のかたちを とり、人の子として処女マリアから生まれた。パウロは次の ように述べている、「確かに偉大なのは、この信心の奥義で ある、『キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、 御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じ られ、栄光のうちに天にあげられた』」(テモテへの第一の 手紙 3:16 下線部はギリシャ語聖書では神となっている)。

「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け 入れなかった」(ヨハネによる福音書 1:11)この唯一、真の 神は、肉においてご自分をあらわされた、それは御子イエ ス・キリストである。「…神はキリストにおいて世をご自分に

和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしない で、…」(コリント人への第二の手紙 5:19)。

私たちは、「…キリストにこそ、満ち満ちているいっさ いの徳が、かたちをとって宿って」いると信じる (コロサイ 人への手紙 2:9)。「神は、御旨によって、御子のうちにすべ ての満ち満ちた徳を宿らせ、」た(コロサイ人への手紙 1:19)。従って、イエスは人間性に於いては人であり、神性 に於いては過去も現在も神である。彼の肉体は小羊、すなわ ち神の犠牲となられた。彼だけが神と人との間の唯一の仲保 者である。「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただ ひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」 (テモテへの第一の手紙 2:5)。

   イエスは父方に於いては神であり、母方に於いては人
間であった。故に彼は神の子として、また人の子として知ら
れ、神であり人でもあった。

「『神は万物を彼の足もとに従わせた』からである。 ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたか たがそれに含まれていないことは、明らかである」(コリン ト人への第一の手紙 15:27)。「そして、万物が神に従う時に は、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろ

う。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるた めである」(コリント人への第一の手紙 15:28)。

「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者 にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オ メガである』」(ヨハネの黙示録 1:8)。

 神の名

神は、「神エロヒム」「全能の神」「エル シャダイ」 「エホバ」と言うように肩書きを用いられた。特に旧約では、 あがないの名として「主エホバ」を用いた。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひ とりの男の子がわれわれに与えられた。…その名は『霊妙な る議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられ る」 (イザヤ書 9:6)。このイザヤの預言は、神の御子に名 が付けられたときに成就した。「彼女は男の子を産むであろ う。その名をイエスと名づけなさい。彼はおのれの民をその もろもろの罪から救う者となるからである」(マタイによる 福音書 1:21)。

「この人による以外に救はない。わたしたちを救いう る名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていな いからである」(使徒行伝 4:12)。

l 人間の創造と堕落

初めに神は人間を罪のない、純真で、聖なる者として 創造された。しかし、不従順の罪により、人類の最初の人間 であるアダムとエバが聖なる状態から堕落し、神は彼らをエ デンの園から追放した。こうしてひとりの人の不従順により、 罪がこの世に入ったのである(創世記 1:27、ローマ人への手

紙 3:23; 5:12)。

 悔い改めと回心

罪の許しと放免は、心からの悔い改め、すなわち罪を 告白し、離れることによって得られる。わたしたちは主イエ ス・キリストによる信仰によって義とされる(ローマ人への 手紙 5:1)。 バプテスマのヨハネは悔い改めを宣べ伝え、イ エスがそれを宣言し、使徒たちもまたそれをユダヤ人と異邦 人に強調した (使徒行伝 2:38; 11:18; 17:30)。

「悔い改め」 という言葉は幾つかのギリシャ語に由来 し、それらの言葉には、見解や目的を変える、心を変える、 思いを変える、生活を変える、転換する等を意味する。

イエスは、「…あなたがたも悔い改めなければ、みな同 じように滅びるであろう」と言われた (ルカによる福音書 13:3)。

ルカによる福音書 24 章 47 節 では、「そして、その名 によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムから はじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」と言ってい る。

 水のバプテスマ

聖書に基づいたバプテスマの様式は全浸礼であり、そ れは完全に悔い改め、自分の罪と、世を愛することから離れ た者たちのためにある。それは正式に権限を与えられた福音 を宣べ伝える働き人によって施されるべきでり、聖書に従い、 使徒行伝2章38節、8章16節、10章48節、19章5節に 準じて、主イエス・キリストの御名によってなされるべきで ある。それにより、マタイによる福音書 28 章 19 節に従い、 御言を成就することになる。

 聖霊のバプテスマ

バプテスマのヨハネはマタイによる福音書 3 章 11 節で、

「…このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマ

をお授けになるであろう」と言った。

イエスは使徒行伝 1 章 5 節で、「…あなたがたは間も なく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」と言 われた。

ルカは使徒行伝 2 章 4 節で、「…すると、一同は聖霊 に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉 で語りだした」と言っている。

「聖霊と火とによってバプテスマを授ける」、「聖霊 に満たされる」、そして 「聖霊の賜物」と言う言葉は、聖書 の中で同じ意味として交互に用いられている同義語である。

   聖霊の賜物、満たし、聖霊のバプテスマを受ける全て
の者が、実際に異言を語るという初めのしるしを受けると期
待することは、聖書にかなっている。

使徒行伝2章4節、10章46節、19章6節に記録され ている、異言を語ることと、コリント人への第一の手紙 12 章 と 14 章で説明されている異言の賜物は、本質的には同じだが、 その用途および目的は異なる。

主は預言者ヨエルを通して言われた、「…わたしはわが 霊をすべての肉なる者に注ぐ…」(ヨエル書 2:28)。

ペテロはこの驚くべき経験について、「…イエスは…父 から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたので

ある。このことは、あなたが現に見聞きしているとおりであ る」と説明した (使徒行伝 2:33)。

さらに、「この約束は、われらの主なる神の召しにあ ずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子 らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使 徒行伝 2:39)。

根本教義

当教団の基本的かつ根本的な教義は、聖書に基づく全 き救いである。すなわち、悔い改め、罪のゆるしを得るため の主イエス・キリストの御名による全浸礼の水のバプテスマ、 御霊が語らせるままに異言を語るという始めのしるしを伴う 聖霊のバプテスマである。

   私たち全てが信仰の一致に到達するまで、御霊の一致
を保つよう努め、また同時に異なる見解のために争い、から
だ(組織)に不一致をもたらすことのないよう全ての兄弟た
ちに訓戒する

 神によるいやし

イスラエルの民がエジプトから導き出された後で、主 (エホバ) が彼らと交わした最初の契約は、いやしの契約だった。主は言われた、「…あなたが、もしあなたの神、主(エ ホバ–ラファ、主 いやし主) の声に良く聞き従い、その目に 正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべて の定めを守るならば、わたしは、かつてエジプト人に下した 病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、 あなたをいやすものである」(出エジプト記 15:26)。

ある訳では 、「私はエホバであって、あなたの医者で ある」 と言っている。主が私たちの医者であるので、世界で 最も優れた医師が私たちと共にいることになる。私たちの主 イエス・キリストはガリラヤの全地を巡り歩いて、御国の福 音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを いやされた(マタイによる福音書 4:23, 24)。

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつま でも変ることがない」 (ヘブル人への手紙 13:8)。

主イエス・キリストが受けた苦しみにより、私たちの 魂の救いと同様に、体のいやしのためにも代価が支払われた。 「…その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」 (イザヤ 53:5)。マタイによる福音書 8 章 17 節 には、「… 彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を 負うた」とある(ペテロの第一の手紙 2:24 も参照のこと)。

このことから、神による体のいやしは、あがないの内 にあることがわかる。それが真実ならば、いやしは信じる全 ての者のためにあるのである。イエスは信じる全ての者につ いて、「…病人に手を置けば、いやされる」と言われた。後に、 ヤコブは全ての教会に宛てた書簡の中で、「あなたがたの中 に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招 き、主の御名によってオリブ油を注いで祈ってもらうがよい。 信仰による祈りは、病んでいる人を救い、そして、主はその 人を立ち上がらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していた なら、それもゆるされる。だから、互いに罪を告白し合い、 また、いやされるようにお互いのために祈りなさい。義人の 祈は、大いに力があり、効果のあるものである」と記してい る(ヤコブの手紙 5:14-16)。

   これら全ての約束は、今日の教会のためにあるのであ
る。

 聖餐

主は裏切られるその夜、弟子たちと共に食事をし、そ
の後、聖餐を行われた。「またパンを取り、感謝してこれを
さき、弟子たちに与えて言われた、『これは、あなたがたの

ために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』食事ののち、杯も同じ様にして言わ れた、『この杯は、あたながたのために流すわたしの血で立 てられる新しい契約である』」(ルカによる福音書 22:19- 20)。

パウロは教会に、どのように聖餐を行うのかを指示し た。(コリント人への第一の手紙 11:23-34 )。

   このようにして主の裂かれた体と流された血を象徴す
るパンとぶどうの果汁を実際に用い、食し、飲むように定め
た。また、聖餐にあずかることは、霊的意義と祝福がある。

ホーリネス(聖性)

信心深い生活は、主の子供である一人一人の生活の特 徴となるべきであり、私たちは神の御言の手本と模範に従っ て生活するべきである。「すべての人を救う神の恵みが現れ た。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを 捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し」(テ トスへの手紙 2:11-12)。「あなたがたは、実に、そうするよ うにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために 苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残され たのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなか った。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、 おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさ いをゆだねておられた」(ペテロの第一の手紙 2:21-23)。

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように 努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはで きない」(ヘブル人への手紙 12:14)。

「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたに ならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる 者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、 あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるから である。あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公 平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿って いる間を、おそれの心をもって過ごすべきである。あなたが たが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や 金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもな い小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(ペテ ロの第一の手紙 1:15-19)。

私たちは聖徒が良いキリストの教えと信心深い生活に 益とならない以下のようなあらゆる活動に関わることを決し て承認しない。すなわち不健全な演劇、映画、ダンス、混浴 (水泳など)、女性が髪を切ること、化粧、身体を露出する 慎みのない服装、あらゆる世俗的なスポーツや娯楽、不健全 なラジオ番組や音楽等である。さらに、テレビにはこれら全 ての悪が映し出されているため、聖徒がテレビを家庭に持つ ことを承認しない。私たちは全ての聖徒の霊的成長と、主の 来臨に備えて、上記の事柄から聖別されるように勧める。

 神の恵み

「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わた したちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、 正しく、信心深くこの世で生活し」(テトスへの手紙 2:11- 12)。

「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこと とは、イエス・キリストをとおしてきたのである」(ヨハネ による福音書 1:17)。

クリスチャンが救われた状態を保つためには、神と共 に歩み、神の愛の中に(ユダの手紙 21)、そして神の恵みの 中に自らを保つべきである。「恵み」とは「好意、味方」を 意味する言葉である。人が神に背き罪を犯す時、人は神の好 意を失う。もしその人が罪を犯し続け、悔い改めなければ、 最後にはその人は失われて火の池に投げ込まれるであろう (ヨハネによる福音書 15:2,6、ペテロ第二の手紙 2:20-22 参 照)。ユダは彼の時代の背教者と、彼らの受ける報いについ て語っている(ヘブル人への手紙 6:4-6 も参照のこと)。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信 仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たもので はなく、神の賜物である」(エペソ人への手紙 2:8)。

万物更新

私たちは聖書が万物更新を教えていることを理解する。 それは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、世の初めか ら預言しておられたことである(使徒行伝 3:21)。しかし、 万物更新に悪魔、堕天使、また全ての罪人が含まれるとは聖 書の中に見出すことができない。(ヨハネの黙示録 20:10 参 照のこと)

 聖徒の携挙

私たちは主が現れる時が近づいていると信じる。「そ の時、キリストにあって死んだ人たちがまず最初によみがえ り、それから生き残っている私たちが彼らと共に雲に包まれ て引き上げられ、空中で主に会う」(テサロニケ人への第一 の手紙 4:13-17、コリント人への第一の手紙 15:51-54、ピレモ ンへの手紙 3:20-21)。

什一を献げることについて

什一を献げることは、アブラハムの時代から行われて いて、神の働きに備えるための神による財政計画であると私 たちは信じる。什分の一の献げものは、アブラハムが信仰を もって始め、モーセの律法において命じられ、神と正しい関 係を持っていた時イスラエルはそれを行い、そして、イエス がそれを承認した(マタイによる福音書 23:23)。パウロは、 神があなた方を豊かにしてくださることに応じて、主の倉に 蓄えておくように、と語った。神の物を盗んではならない、 すなわち什分の一と、ささげ物を神に返さないことによって、 盗んではならない(マラキ書 3 章)。

イエスの再臨

イエス本人が、天にあげられたのと同様に、再び来ら れることは、主イエス・キリストご自身が明らかに示された ことであり、初代教会に於いて使徒たちによって宣べ伝えら れ、教えられた。このことから今日、神の子たちはイエスの 栄光の出現を熱心に期待して待ち望んでいるのである(マタ イによる福音書 24 章、使徒行伝 1:11; 3:19-21、コリント人への第一の手紙 11:26、ピレモンへの手紙 3:20-21、テサロニケ 人への第一の手紙 4:14-17、テトスへの手紙 2:13-14)。

 千年期

更に私たちは、地上におこる困難は「産みの苦しみの 初め」であり、それはますます激しくなり「国が始まってか ら、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時」 に至ると信じている(マタイによる福音書 24:3-8、ダニエル 書 12:1)。 そして、「患難」の期間後、地上では良き時代が はじまり、千年間、「地の上では人々に平和がある」と信じ る(ヨハネの黙示録 20:1-5、イザヤ書 65:17-25、 マタイによ る福音書 5:5、ダニエル書 7:27、ミカ書 4:1-2、ヘブル人への 手紙 2:14、 ローマ人への手紙 11:25-27)

 最後の審判

千年の期間が終わると、全ての死人が復活し、彼らは 最後の審判を受けるために大きな白い御座の前に呼び出され、 命の書に名が記されていない者は皆、神が悪魔と悪魔に仕え る使いたちに用意された火と硫黄との池に投げ込まれる。そ の火と硫黄との池に、悪魔が最初に投げ込まれる(マタイによる福音書 25:41、ヨハネの黙示録 20:7-15、21:8)Edit